寺院概要・沿革

寺名
女鳥羽山道樹院玄向寺
宗派
浄土宗
創建
永禄4年(1561)
開山
長譽清光和尚
住所
〒390-0304 長野県松本市大村681
電話
0263-46-1393
アクセス
JR松本駅より美ヶ原温泉行きバスで30分 終点下車徒歩15分
長野自動車道松本I.C.より20分(地図参照)

 当寺の歴史は、室町時代の永禄4年(1561)5月、長譽清光和尚が現松本市浅間温泉の地に、「帰命山念佛寺」を開創されたことに始まります。

 やがて、寛永2年(1625)10月、西譽向順和尚が現在の松本市大村に寺を移して、開山上人のお名前をいただいて、「清光寺」と名前を改めました。

 寛永19年(1642)7月には、水野隼人正忠清(ただきよ)公が三河吉田より、松本城主となりました。

 そして、水野忠清公・忠職(ただもと)公・忠直(ただなお)公・忠周(ただちか)公・忠幹(ただもと)公・忠恒(ただつね)公と、享保10年(1725)に至るまでの六代84年間にわたって、水野家は松本城主でありました。この間、代々の城主の尽力と保護によって、当寺の基礎ができあがりました。

 二代目の水野忠職公は、寛文8年(1668)6月26日、58歳で歿し、法名を「道樹院殿信譽上昌玄向大居士」と称し、当寺に葬られました。

 翌年、三代目の水野忠直公は、女鳥羽山麓に廟所を造り、寺名を二代目忠職公の法名から取って、「上昌山道樹院玄向寺」と改称しました。これが、玄向寺の名前のいわれです。忠直公は自ら朝廷に奏して、玄向寺を江戸の芝・大本山増上寺末とし、後に総本山は京都・東山の知恩院となりました。

 明治時代になって、玄向寺第35世戒譽隆説和尚に至り、裏山の名前を取って、山号を上昌山から「女鳥羽山」に改めました。

 旧本堂・庫裡・御霊屋(水野公の御位牌を祀る御堂)を、昭和35年(1960)8月、当時の東京大学工学部長であった、工学博士藤島亥治郎先生の調査団に依頼して、5日間の調査の結果、旧本堂は室町時代の建立で、庫裡は旧本堂よりも後年のものであることが判明しました。

 現在の本堂・位牌堂・会館は、施工 大隅流社寺建築石田組(諏訪市)・施工協力 松本土建(株)によって建立され、昭和60年10月に落成慶讃法要を厳修しました。この建物は、2階部分に間口8間、奥行15間半の純木造の本堂と位牌堂、その下の1階部分に鉄筋コンクリート造の会館と重層建築になっています。

 参道には六地蔵尊・松本三十三番観音像・百体観音像等の石仏が整然と並び、境内には樹齢400有余年の松・杉・銀杏の三巨木があり、それらの周辺には牡丹が植樹してあります。

 牡丹は明治18年(1885)、戒譽隆説和尚が植樹して以来、現住職で5代目となり、現在120種、1250株の牡丹園となりました。開花時期の5月には地元をはじめ、県内外から大勢の方々がお越しくださいます。

 また、牡丹の見頃となる、毎年5月第2土・日曜日の2日間、「ぼたん祭雅楽演奏会」を開催し、多くの方々が鑑賞にご来寺されます。