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槍ヶ岳開山 播隆上人について

播隆上人
播隆上人
 北アルプスの槍ヶ岳(標高3,180メートル)を開山された播隆上人(ばんりゅうしょうにん)は、江戸時代後期、天明6年(1786)に越中国河内村(現富山県富山市河内)に生まれました。十代で故郷を離れ、家は浄土真宗でありましたが、上方(京都、大阪)、尾張(愛知)の各宗寺院を遍歴した後、浄土宗の僧侶となりました。

 播隆上人は諸国巡錫修行をし、修行の場を山岳に求め、各地の山で念仏修行を実践されました。山での播隆上人の足跡は、伊吹山禅定、笠ヶ岳再興、槍ヶ岳開山、穂高岳登拝と、山岳史上から見ても偉大な業績を残しています。

 播隆上人は自らの修行だけに生きた念仏行者ではなく、山を下り里に至っては念仏の布教につとめ、民衆とともに生きた方でした。槍ヶ岳を開山された後は、里の念仏講の人々を槍ヶ岳山頂へと導かれてもいます。各地に残されている、播隆上人がお書きになった、南無阿弥陀仏の名号碑、名号軸、今も続く念仏講などによって、活動の一端を知ることができます。

 玄向寺と播隆上人の関係は、文政9年(1826)8月、播隆上人が玄向寺を訪ねたことに始まります。当時の玄向寺住職は、立禅和尚(りゅうぜんかしょう)という方で、釈尊の教えの一つである「観無量寿経」の研究者として、浄土宗十八檀林の中心寺院であった江戸・芝の増上寺で、「観無量寿経」に説かれた内容を絵に表した「観経曼陀羅」の講義を行ったといわれて、多くの方に名が知れていました。

 播隆上人は、その立禅和尚に教えを受けるため、玄向寺を訪ねてこられました。播隆上人は、立禅和尚から「観経曼陀羅」の教えを受け、信州の様子等を聞きました。玄向寺を根拠宿坊として、時には裏山から流れ出る女鳥羽の滝に打たれ修行し、また近隣の人々にも念仏を広めるため、念仏講を結び、布教伝道に尽力されました。

 播隆上人は、立禅和尚の紹介により、信濃国小倉村(現安曇野市三郷小倉)の中田又重を道案内人として、安曇平から小倉村の鍋冠山・大滝山・蝶ヶ岳を経て、槍ヶ岳を目指しました。

 1回目の槍ヶ岳登山では山頂までは登らなかったものの、山頂へ登れることに確信を持ち、山頂に仏像を安置するため、美濃・尾張・三河・山城・若狭等の各国を巡錫して、浄財を勧募し、また信者に対し布教伝道していきました。

 各地での浄財をもとにして、大坂で仏像を(阿弥陀如来・観世音菩薩・文殊菩薩)を造り、この仏像を奉持して、再び信州へと入りました。そして、中田又重とともに再び槍ヶ岳へと登り、待望の槍ヶ岳初登頂に成功し、山頂にこの仏像を安置して、槍ヶ岳開山を成し遂げられました。時に文政11年(1828)7月20日、播隆上人数え年43歳のことであったといわれております(2回目の槍ヶ岳登山にして、槍ヶ岳初登頂、槍ヶ岳開山)。

 播播隆上人は岩窟(現在、山頂直下にある播隆窟とされる)に入って参籠し、晴天の日などは山頂に登って、そこで一心不乱に念仏を唱えるなど、四十八日間の別時念仏も行い、無事下山して、小倉村へと帰りました。

 天保4年(1833)8月には、3回目の槍ヶ岳登山を行い、槍ヶ岳までの山道を切り開いて、登山のための道を整備し、翌天保5年(1834)6月18日に4回目となる槍ヶ岳登山をし、53日間滞在し、別時念仏を行うとともに、諸人が槍ヶ岳山頂に登るための安全を図り、山頂付近に藁縄などで作った「善の綱」と呼ばれる綱を設置しました。そして、8月12日に下山しました。

 天保6年(1835)6月24日、5回目となる槍ヶ岳登山を行いました。この時、前年に設置した「善の綱」が傷んでいることを確認し、鉄の鎖に架け替えることを発願されました。

 翌天保7年(1836)には浄財を募り、鉄鎖で作られた、新しい「善の綱」が出来上がりますが、天保の飢饉のため、松本藩に差し押さえられてしまいました。

 ようやく槍ヶ岳への鉄鎖取り付けが許可されたのは、それから4年後の天保11年(1840)のことで、8月頃、信者らによって槍ヶ岳山頂に、鉄鎖で作られた「善の綱」が設置され、播隆上人の発願されたことが、ついに大願成就しました。

 しかし、それに先立つ7月に播隆上人は病のために、玄向寺で伏しており、その病床でこの朗報を聞きました

 その後、播隆上人は9月6日に玄向寺を発ち、各地をまわって、念仏講を行ったり、鉄鎖を架ける際にお世話になった方々に御礼を述べたりしながら、美濃揖斐村の阿弥陀堂に向かいましたが、途中病気が悪化し、中山道太田宿にて往生されました。時に天保11年(1840)10月21日、行年は数え年55歳でした。

 播隆上人は、全5回槍ヶ岳へと登りましたが、ただ槍ヶ岳を初登頂しただけに留まらず、諸人が登山して、そこで念仏をお唱えすることができるようにと、槍ヶ岳へ至る道を整備し、山頂付近の険しい箇所には綱を架けるなど、誰もが安全に登山できるように努められたので、「槍ヶ岳開山」と称されています。

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